発表

3A-008

災害復興と集合的トラウマ
カイ・エリクソン『Everything in its Path』を読み直す

[責任発表者] 大門 大朗:1,2
[連名発表者・登壇者] 宮前 良平:3, 高原 耕平#:4
1:京都大学防災研究所, 2:学振SPD, 3:大阪大学, 4:人と防災未来センター

はじめに
 本論文は,「Erikson, K. (1976). Everything in its Path. New York: Simon & Schuster」(EiiP)の精読を通じ,現代における災害復興における諸課題について,特に,「集合的トラウマ」の重要性を指摘するものである。はじめに,2019年現在において,本書EiiPについて,著者および本書の概要を説明し,次に記述の対象となった1972年のバッファロー・クリークでのダム決壊事故について説明する。最後に,バッファロー・クリークでの災害と,日本国内の津波災害とを対比しながら,エリクソンが提出した集合的トラウマという概念が,現在でも有効である可能性を展望として提示する。
Everyting in its Pathについて
 本書は,1976年に,社会学者であるカイ・エリクソン(以下,エリクソン)によって書かれた,1972年に発生したバッファロー・クリーク災害についての書である。エリクソンは,1931年にエリック・エリクソンの息子として生まれ,その後,シカゴ大学で博士号を取得した後,マーシャル諸島での水爆実験やスリーマイル島原発事故,エクソン・ヴァルディーズ号原油流出事故などの人的災害に関する研究の第一人者として,研究を行ってきた。本書は,その中でも,エリクソンが長期にわたって行ったフィールドワークを元にして,比較的まとまって書かれた書籍である。
 本書は,現地でのフィールドワークを中心としたエスノグラフィーとして位置づけられる。その意義は,アメリカにおける災害研究(特に,人文社会学)が,災害直後の対応期を中心とし,被災者の個人的なケアが主な課題として考えられていた(例えば,大門・渥美, 2019を見よ)当時に,災害が人々から奪うものは何か,それが,中長期の復興過程において被災者にとってどのような意味をもつのかについて,詳細な記述を行った点にある。近年において,ハリケーン・カトリーナ後にさかんになった災害復興研究においても,本書は古典の位置を占めている。
 災害は物理的な破壊だけでなく,コミュニティにある日常を破壊していくものであることは,当然日本においても共有されている。しかし,多くの災害研究は,短期的かつ文化・歴史的側面の欠落した量的調査に陥っているのも事実である。その点にあって,訳出されていない本書を国内において読み返すことは,国内外の災害復興研究を考える意味で重要な意味を持つと考えられる。
バッファロー・クリークダム決壊事故
 本事故は,1972年の2月26日に発生したダム決壊事故である。この事故で溢れた水により,周辺の町は壊滅的な被害を受け,犠牲者は125名を数えた。その中でも,この災害の特徴は,決壊したダムが炭鉱施設からの廃棄物によってできたものであり,それが決壊したという点である。この廃棄物によってできたダムは,当然,操業していた企業が責任を負うべきものでもあるわけだが,被害を受けた人々の多くはその施設で働いていたことで問題は複雑化していった。また,災害の特徴は,家や町が,一瞬にして,決壊したダムの水によって押し流され,普段の生活が喪われてしまった点にある。
集合的トラウマを巡る展望
 エリクソンは,当時,この災害において,法的な手続きの補助のために,650人の被災者の聞き取りや情報の整理を行っていた。その中で,エリクソンは,単に災害は,個人へ心理的なショックを与えるだけでなく,コミュニティにあった共同性が喪われていることへ徐々に関心が向けられるようになっていく。そこで,提示されたのが,「集合的トラウマcollective trauma」の概念である。
 エリクソンは,集合的トラウマを構成するものの中でも,「共同性」の重要性を指摘している。ここでいう共同性は,共同体とは異なるものである。エリクソンは次のように述べている。
 「私が「共同体」ではなく,ここであえて「共同性」という用語を用いているのにはわけがある。人々が共同体を喪ったと嘆く時,町のある領域を指し示しているというよりも,人間一般を取り囲んできたものを生み出した,人びとの関係の網目について指し示しており,それを強調したいからである」(p.187)
 人々が,もう根ざすものを喪ったということから生じる「方向感覚の喪失」,「つながりの喪失」,安心できる場所としての感覚が夢のようであったという「安心感の幻想」,こうしたものが個人的なトラウマだけでなく,バッファロー・クリークでは大きな意味を持っていた。
 「もういっしょにやっていくというのは無理だと思います。いちおうやってはみますが,ここでは何かが違う。たぶん災害の衝撃か,その後遺症なんでしょう。うまく言えませんが,その二つを分けることはできないと思います」(p.194)
 この証言は,生き残った被災者の一人が,個人的なものと集合的なものがわけられないことを述べている。そして,こうした感覚は,一度に町が流された津波災害と,かなりの類似性をもつように思われるのである。もちろん,Herman(2015)も指摘しているように,トラウマの概念において,責任の所在が曖昧にでも明示できる人的災害と,そうでない場合の多い自然災害とを短絡的に接続することはできない。しかしながら,本書が提示する集合的トラウマが開く,コミュニティにおける「共同性」を軸にした,災害復興の可能性は現代の日本においても引き続き議論に耐えうる可能性を持つのではないだろうか。

引用文献 当日示します

キーワード
カイ・エリクソン/災害復興/集合的トラウマ


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